はじめに
仏教の開祖といわれている、お釈迦さま(ブッダ)が生きていた時代、そののち200年くらいの間にまとまられた教えなどを原始仏教といいます。
そのうち、ダンマパダ、スッタニパータなどの経典は釈迦自身が口にして弟子に説いたのであろうと思われる言葉を詠唱しやすい詩句にして構成されています。
今の仏教のように難解な教えや理論もなく、人間はこう生きるべきではないだろうか?といった指針や、人間の生き方への反省など、非常に高潔でありながら優しく、時にはユーモアや皮肉も交えながら平易に言葉で語られています。
さて、私は宗教家でもありませんし、仏教信奉者でもありません。
よく宗教をされている方、仏教寺院などで修行をされたりしている方はこういうような意味合いの言葉をよく口にします。
神仏というのは森羅万象の真理であり、宇宙の真理・法則を表現したものだ。
科学や理論で説明できるというのは人間の驕り高ぶりである。
謙虚に神仏の教えに耳を傾けるべきである。
仏教などの宗教は本当に森羅万象。宇宙の真理なのでしょうか?
私はそう思いません。
宗教、哲学、思想はあくまでその得体のしれない、私たち人知では知りえることのできないものに対する、様々な思考的アプローチであり、真理そのもの体現ではないと思うのです。
もちろん科学などの理論的なもので理解できる範疇を真理だと思うのはおかしな話です、しかし、科学者だって不思議な何かを感じるから解明しようとするわけです。そんなに驕り高ぶったら、科学者はとっくに研究をやめているでしょう。
人知を尽くしてもほとんど世界のことはわからなくて、世界のことならまだしも、人間そのものの体のことさえほとんどわかってなくて、世の中まだまだ謎だらけです。
宇宙に至っては全くの意味不明な謎空間です。
なぜ、神仏・古い教えが真理で宇宙の法則だと断定できるのでしょうか?
「古い教え」=「真実」としてしまうことは、その「理論で説明できると思う驕った人間」と何が違うのでしょうか?
しかしながら、ソクラテスも指摘しているように、人間は何か便利になってその労力をかけなくなることで、人はその感性を失っていくだろうとの通り、現代社会のわたしたちが失ってしまった「人間の本質とは何か」というものが古い思想には残されているのではないかと思います。
確かに人間に対する深い洞察は、現代哲学にはない鋭さが原始宗教、古い哲学・思想には残されています。
初めに書いたように原始仏教には、難しい教理や難解な教えはありません。
真理を追究する姿はあっても、これが真理(今の仏教的な)であると断定して思想の頂点に立とうという姿はありません。
ブッダは、涅槃の境地に向かうことを「とても楽しい」と表現されています。
それはたぶん、ブッダが一番伝えたかったことではないかと、私は感じています。
そして、「これが真理である」と自説を展開し争うのはとても愚かであるとも。
このサイトでは、そういう観点に立って、仏教は最高の真理の教えで、従わないといけないというものではなく、そういった「楽しい生き方」ということを原始経典を通じて探っていければと思います。
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