蛇の章~怒り

前回は蛇の章の話をざっくりしましたが、その一つ目の句をもう少し具体的に。

この蛇の章の一句目は釈迦仏教を理解する上で欠かせないエッセンスが詰まっています。


蛇の毒が(体の隅々に)広がるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者は、この世とあの世とをともに捨て去る。

~~蛇が脱皮して旧い皮を捨て去る様なものである。



この句は文字通り、

蛇の毒はほんのわずかな時間で体中に巡り、命を奪います。

すぐ対処しなければなりません。

それと同じように、怒りが発生してもすぐ対処し消すことで心を守れるということだと思います。怒りは蛇の猛毒と同じであると。

で、その怒りをすぐ打ち消すことができるのならば、それはもう解脱しているのですよと。


このようにスッタニパータでは、よく難しく論じられる「涅槃」という境地を端的に、明快に示されています。

涅槃の境地とは、まずは怒りという毒に侵されない境地であるということになります。

よくいわれるように、特別な考え方や修行によって悟りがあるから怒らないのではなく、普段から怒らないよう心を整えていくことが解脱への道ですよと。

涅槃とは特別な悟りの境地や秘儀によるものではないことが見て取れます。



毒というたとえを用いたように、怒りという感情はあらゆる心の苦しみの元であるということなのでしょう。

そして、怒りは自分のみならず、他人にも伝搬していきます。


例えば仲の良い友人たち集まり、なにかの拍子で一人が怒りだし、その一人の怒りで、直接関係のない人まで怒りの感情や不安の感情を抱きます。

そして、楽しい集まりも、取り返しのつかないほどの人間関係の崩壊につながることもまあなくはないわけですね。

そしてそのあと、気分の悪いまま家に帰ってさらに関係ない身内にあたったり。


そうして気まずくなった種々の関係は、また自分の不安や不幸を感じるもとになるというスパイラルを生むんですよね。


それほど怒りという感情は、自己の心を飛び出して新たな火種を作るほど強力なエネルギーを持っているわけです。

ある意味私たちは怒りの連鎖の中で生きているといってもいいかもしれません。


さて、私たちの心の状態で考えてみましょう。


まず怒りというものを感じるときは大抵、何か他者からの投げかけを受けています。

悪口を言われた、馬鹿にされた、嫌がらせをされた・・・などなど。

会社の上司が、同僚が、家族が、友人が・・・多くは相手が存在しています。


確かに、不当な嫌がらせなどにはちゃんと対処しなきゃいけません。

でも、たいてい日常生活で起こるこういう感情は、ちょっとした基準や価値観の違いから生じていることがほとんどでしょう。


世の中でなぜ、法律や、決まり事、ルールがこれほど必要なのか?それを考えただけでも、人は自分がこう思うのだから、相手もこう思うはずだ、というものがいかに個人的価値観に基づくものかわかるはずです。


ごく小さな地域社会だけに根差していればそうでもないかもしれませんが、現代のようにグローバル化が進んで他の社会を知れば、ますます自己の常識が通用しないことがわかります。


そのように大きな違いなら分かるのですが、意外に親しい人同士でも個人の細かい感情やあるべき対応などそうそう分かりうるはずかありません。

それは、私たちの関係性はこういうものだろうと自分で基準を決めてかかっているからです。

このルールが分かるなら、あのルールもわかるでしょ?と。

その思い込みから、ほんの些細なあるべき論やその言い方が自己の作り上げた勝手な基準と違う時に怒りが発生します。


そのように、たいていは、他の人に対する先入観や自分のあるべき論からずれた時に怒りを感じているはずです。

そして、あいつがこういったから、君がこれをやめないから、という相手が悪いという感情しかないはずです。だから自分が怒ってることに気が付いてない時もあります。


例えば、仲のいい友人とは阿吽の呼吸だと思っていれば思っているほど、ずれた時の怒りやがっかり感は大きいでしょう。

でも考えてみれば、その友人とはいろんな趣味や考え方が合うからといって、思うことや感じ方すべてを話し合ったわけではないですから。

夫婦や親子もそうですね。


結局のところ、主観で相手を定義し思い込むことが怒りを生んでいることになります。

客観性をもって他を理解すると、怒りは生まれません。

外国人が、土足で家に上がってきても、その生活文化を知っていれば、もしくは知ろうとすれば、ああ、そういうものなのか、と思うはずです。


とはいえ、そう人間は客観的に考えれるものではありません。

客観的にと思うことにも主観が入ってますし、自分という脳で考える以上、主観的にならざるを得ないわけです。


まあ、この辺りが仏教が後に教理化していく際にややこしくなった要因だろうとは思いますが・・・


まあこういうものだと、理解しておき、「私の主観」というものと同じように、「他人の主観」があって、と理解していくことでいくらかは防げると思うのです。


このように原始仏教では自分の苦しさ、つらさ、もどかしさを、他人も同じように自分という自我があってそう感じていることを知りなさいという、考え方がよく出てきます。


そう考えて、少しずつでも心の怒りを解いていくことが、安らぎにつながっていくのでしょう。

そして、怒りの心が小さくなったら、たぶん、あれ?なんでこんな私は怒ってたんだ?という風になるのでしょうね。


現実的には、カッとなったときの瞬間に気が付けるようになること。気が付くようになったらしめたもの。

そして気が付いたら心を静める努力をする。

そういうことも大切だと思います。


とにかく、怒りは猛毒であるからすぐ捨てましょうということですね。














All Things Must Pass

原始仏教に学ぶ、楽しく生きるヒント

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