蛇の章~あの世とこの世
さて、この蛇の章のもう一つ重要なキーワード「この世とあの世とをともに捨て去る」をすこし。
釈迦仏教を理解するうえで最も重要な部分になるのかもしれません。
そして、他の宗教や現代仏教との大きな違いが大きく表現されている部分だと思います。
あの世とはいわゆる死のそののちの世界ととらえていいでしょう。もしくは煩悩を乗り越え悟りの世界に行くという、彼岸ともとらえることができますね。
世界中のほとんどの宗教ではこの「あの世」のために存在しています。
それぞれ「あの世」の定義は多少違いますが、幸せなあの世に行くために善行を積みなさいと。
もちろんお釈迦様の生きていた時代もインド哲学、宗教の命題は「あの世」であり「輪廻」でした。
この時代のヴェーダ哲学やバラモン教では、あらゆる生命は輪廻を逃れることはできないとされ、よく努め、善行をつみ、厳しい修行に耐え、悟りを得た人間だけが宇宙の最高神ブラフマンと一体化し、二度と生まれてくることはないという風に考えられていました。
ここで、原始仏教ではその重要な「あの世」を捨て去るというのです。
ブッダは、この紀元前700年ころの思想すべてに「No」を叩きつけたわけです。
少し古代の思想を見てみましょう。
メソポタミアの世界最古の叙情詩「ギルガメッシュ叙情詩」には
「ギルガメッシュよ、お前はさまよいどこに行くのか、~中略~ 神々は人間を作ったときに死をあてがい、生命は彼ら自身の手に収めてしまった。ギルガメッシュよ、自分の腹を満たすがよい。昼夜、自身を喜ばせよ。日毎、喜びの宴を繰り返せよ ~中略~ これが人間のなすべき業なのだ」
と、人間の避けようのない死に対して考察し、最高賢者ウトナピシュティムを探し求めて旅をするギルガメシュに、不思議な酌婦(女神の化身)はこう忠告します。
この時代のメソポタミアでは死後の世界は想定されておらず、限りある命をいかに充実したものにしていくべきか、という思想があったことが見て取れます。
その流れからか、古代ローマ帝国でも死後の世界はあまり語られず、「快楽主義」であったかのような宗教が多く存在していました。
しかし、その時代と同じころ、そしてその時代以降のエジプト文明では、もう少し「死後の世界」にスポットが当たります。
このエジプトでは「死者の書」にもある通り、死後、楽園アルルに行けるかどうか、死の直後に死後の世界を統治する神であるオシリスに裁かれるという考え方が一般的でした。
裁かれ心臓を怪獣に食べられないよう、人々はとても信仰深く生きてきた様子がうかがえます。
その後、一神教が誕生し、死後の世界というものが思想的に定着し「人々はいかに死の裁きを迎えるか」ということが生き方の根底の問題になってきました。
それほど、紀元前2000年ころから発生したと思われる、「あの世」、「来世」思想は大きく人々の思想と生き方を変えたのではないでしょうか。
さらに紀元前1500年くらいの古代インドでは、さらにその死後の世界を発展させ、輪廻という概念を生み出し、人間のみならずあらゆる生命は輪廻の中にあるとしました。
ブッダの生きていたその時代も、その「あの世」に関する考察、そして「あの世」にどうやってよりよく赴くか、ということが大命題だったようです。
現代では少し想像をすることは難しいのですが、相当、死の恐怖というのは大きかったのでしょう。
この時代の思想には、ただただ「あの世」への恐怖の緩和がすべてだったといっても過言はないかと思います。
そのような思想哲学に対して、ブッダは、その「あの世」というもの自体が執着であり、それが苦しみの原因であるとしました。
すべての苦しみは「あの世」と「この世」に執着しているからですよと。
人知をいくらひねり出してもわからない、「あの世」をこうである。と規定することから間違っていて、それが幻想が様々な誤りを生じさせます。
自己の心だけでなく、わかることのない死後の世界のことをもって人を支配していた人も多かったでしょう。
仏教では、輪廻を語り、来世を説き、この現世の生き方を考えるという風に思われていますが、この考え方は大方のインド哲学の流れであり、ブッダ自体は否定も肯定もしていないことは「あの世とこの世を捨て去る」の「捨て去る」に見て取れるように、人知でとらえられないことをに執着するのではなくとらわれないことが肝要なのだと説いているわけですね。
来世や今世のいつ襲ってくるかわからない死に対して、いらぬ恐怖から解放されましょう、というのが仏教の根本だったのだと思います。
その執着から脱却する方法、考え方がこのスッタニパータ、ダンマパタなどの原始経典で展開されていきます。
この考え方を前提にすると、原始仏教はずいぶん読みやすくなります。
さて、現代ではさほど来世に対して恐怖を持っている人はいないでしょう。
そういう哲学的な思考もあまりされないようになってきました。
その反面、漠然とした悩みや不安に悩まされている人は増えてきてるように思います。
それは「この世」に対する執着から生まれるものなのでしょう。
あの世とこの世にとらわれない生き方、それが安らかな生き方なのですよ、と提唱したのが仏教の始まりだったのですね。
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