八つの詩句の章~マーティンガヤ その1
「マーティンガヤよ。『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。諸々の事物に対する執着を執着であると確かに知って、諸々の偏見における過誤を見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」
スッタニパータ 837
スッタニパータの第4の章である「八つの詩句の章」に出てくる、マーティンガヤというバラモンの問いに対する答えの句があります。
第一の章である蛇の章からいきなり第4の章に飛びましたが、釈迦仏教を読み解くうえで重要なカギを握っているこの句のお話を先にしたいと思います。
さて仏教といえば、お経一文一句すべて仏の教えであり絶対的な真理である。というのが現代仏教の考え方です。
しかし、ブッダは「このことを説くというのがない」といっています。
そして、
「マーティンガヤよ『教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とはわたくしは説かない。『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らばいでも、清らかになるとことができる。』と説かない。それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である)」
スッタニパータ 839
現代の仏教知識でこれを読むと、禅問答のように感じるでしょう。
「空」の概念と同じように深読みするかもしれません。
しかし、ブッダはここで禅問答のようなことを言っているのではなく、私たち人間が持つ先入観、そしてその先入観が不幸や苦しみの原因ですよ。ということを言っているのだと思います。
私たちは言葉を持ち、考える脳を持ちました。
そして、社会を形成し、共同で運営しています。
私たちはその社会で生きるために、ある価値基準によって物事を判断しています。
それは、その時代の社会の風潮だったり、その地域の環境だったり、家庭環境だったり、教育であったり、自分の経験を通してのことだったり・・・。
このように、その価値基準はとても相対的で、現在から見た過去の先入観に基づいて作られていることがわかります。
例えば、この古代インドの時代では来世が信じられていたので、老人になって一番の心配事は死んだらどうなるかです。
人間に生まれ変わるのか、動物になるのか、へたをすると虫になってしまうかもしれない。
「人間に生まれ変わるには、善い行いをしなければなりませんよ」
といわれたら、やはり悪いことはしないようにします。
しかし、現代で善い行いをするというのは、今世の幸せのため、道徳的により人間らしく生きるためでしょう。
しかし、現代社会では道徳的に生きてきても幸せになれなかったと感じている人はとても多く、老人になって残りの人生が短いとわかると自己中心的なふるまいをする人も増えてきています。
現代では死んだら終わりと考える人が主流ですから、来世のために努めようとは思わないはずです。
身近な話でいえば、職場が変わるだけでも、その職場になれて気が付けば価値観や人生観が大きく変わってることを感じられた方もいるのではないでしょうか。
そのくらい人の価値観というのは時代、環境によって大きく変わるもので、人は何らかの植え付けられた、作ってきた先入観や価値観で自然に当たり前のようにすべてを判断しています。知らないうちに。
ブッダはそこに着目しました。
それはその自己の先入観によって作られた価値観で物事を判断し、選択しているからだと。
来世があるとないとでは人間の価値観は大きく変わります。
しかし、それは私たち人間にわかることでしょうか?
そのような大きなテーマだけでなく、人知の及ばないことをこうであると決めつけ、選択し、矛盾を生み、さほど価値がないものに価値を感じて執着を起こし、心に不安を感じているのではないかと。
そして、私たちが必要なのは、正しいか、正しくないか、真理を知っているかどうかではなく、今、現世において心が安らぐかどうかである、としたのです。
先入観や自分の人生観に固執して、それが正しいと信じ、論争し、もしそれが正しかったとしても、心が安らがないと、何の意味も持ちません。
ブッダの言う「わたしはこれを説くことがない」というのは、そのような固定された教義、戒律は固執を生むだけだ、ということなのでしょう。
確かに、原始仏教では教義のようなものは存在しません。
長くなりましたので、続きはまた。
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