八つの詩句の章~マーティンガヤ その2
では、
「わたくしには、このことを説くということがない」と語ったブッダは、一体何を説いたのでしょう。
前回も書いた通り、当時のインド社会は経済の拡大から、王が権威を持ち始め、バラモンたちの権威が失墜しかけていたころでした。
しかし、人々は当時信じられていた輪廻の考え方に恐れていたため、宗教的力が弱まったわけではなく、旧来のバラモンに変わって様々な思想家が誕生しました。
そして、バラモンや思想家たちは真実の輪廻の世界はこうであり、いかに輪廻の世界から解脱するか、ということを声高らかに唱え、論争を行っていました。
そこで、ブッダは人の魂の問題であったり、来世であったり、死後の世界であったりと、そのような形而上学的問題について論争を行っていることに対して、このような見解を述べています。
「彼らは自己の道を固くたもって論じているが、ここに他の何人を愚者であるとみることができよう。他の説を愚かである、不浄の教えである、と説くならば、かれはみずから確執をもたらすであろう」
スッタニパータ893
つまり、人知で解りえるはずのない形而上学的問題を確かなものとして、自説にこだわるあまりに確執を生んでいると。
「このように説くということがない」は、この形而上学的問題、すなわち宗教哲学の大命題そのものが人々の心に執着を生んでいる。そして、その説にこだわる以上、解脱はあり得ないとして、
そのように、この宇宙の真理がどうであるか、というような「真理」を説くことではなく、執着が心の苦しみを生んだりといった、今を生きる人間が苦しみを生まないための「理法と実践」が必要なのだとしたのでしょう。
わたしはこのように考え、実践し、心が安らいだ。これが解脱である。と。
実際に、原始経典では教団や宗派といった概念は出てきませんし、哲学体系も出てきません。
そして他宗のバラモンであっても、道理にかなった「真の修行者たる道」を歩んでいる人を称賛しています。
前回の
「『教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とはわたくしは説かない。『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らばいでも、清らかになるとことができる。』と説かない。」
とは、
そのように学問や、知識を学ぶこと以前の、心の観察を行い、「人間」としてのあり方、「人間が人間として生きる道」を実践することが解脱への道である、ということだったのではないでしょうか。
先入観や固定観念をなくし、世間の価値観に惑わされず、正しく心を省察すること、それが原始仏教がもっとも主張していたことなのでしょう。
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