毒矢のたとえ

前回、ブッダは形而上学的問題を語ることがなかったと書きましたが、そのこといかに重要視していたかがよくわかるたとえがあります。


原始経典「マッジマ・ニカーヤ」に有名な毒矢のたとえというものがあります。


ある人が毒矢に射られて苦しんでいます

その苦しんでいる人が、「私を射た者が王族であるか、バラモンであるか、庶民であるか、奴隷であるかを知らない間は抜き取ってはならない。またその者の姓や名を知らない間は抜き取ってはならない。」

その人はそのことを知りえないから、やがて死んでいくであろうと。


階級制度が絶対的であったインドらしいたとえです。


このことはなぜいわゆる真理、例えば世界が常住であるか常住でないのか、ということを語らないのか、ということにかけているのですが、矢を射ったのが誰かという問題と、矢を抜いて治療するというのは全く別問題で、世間の哲学、宗教者は「誰が矢を打ったのか」という知りえることのない、もしくは知りえることができるとしても相当時間がかかる問題を「苦しみながら」論じているようなものだとしています。


重要なのは、今、苦しんでいることなのだと。

人生の苦しみを抜き去ることが、もっとも重要なのだといっています。


ここではそのような形而上学問題についてのことですが、このたとえはそのような問題だけではなく、様々なものを含んでいると思います。


私たちは大きな苦しみに見舞われたら「私がなぜこのような目に」であったり「誰の責任か」ということをすぐ考えがちです。


例えば交通事故にあったとします。

お互い十分気を付けてたうえでの偶発的事故だったとします。

それでも事故というものは発生します。そのように人生というのは不条理、条理ならざるものが多くあります。

大けがをしながら、事故の原因や責任について話し合えるでしょうか?

事故の不安、パニックによる心理状態、けがによる痛みで正常な判断などできる訳がありませんし、まともな話し合いなど不可能です。

大抵はまず治療を望むはずです。


このようにわかりやすことなら明解なのですが、人は何か不本意なことに出会った際、心が苦しんだまま、原因や責任を追及しがちです。

世間を恨んだり、他人を恨んだり、自分を恨んだり、運命を呪ったり。

これは苦しんだ心が冷静な判断力を欠いていることが原因なのでしょう。この心が収まらない限り、その心にとらわれてますます判断を狂わせます。

そして苦しみや状況をさらに悪化させます。


時間がたって心が癒えると、たとえその原因やその問題が完全に解決していなくても、なぜそのようなことを思っていたのか、とらわれていたのか、ということを思うことはよくあることです。


何よりもまず心を安らかにすることが重要である。

この「毒矢のたとえ」はそのようなことも語っているのではないかと思います。


All Things Must Pass

原始仏教に学ぶ、楽しく生きるヒント

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