自己が自分のものではない
ブッダは人の苦しみの根源を欲望と執着より起こるものとしました。
執着はなぜ起こるのでしょうか。
仏典ではこのように述べられています。
「わたしには子がある、わたしには財がある」と思って愚かなものは(失いたくないと)悩む。しかしすでに自己が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか。
~ダンマパダ62
人々は「わがものである」と執着したもののために悲しむ。(自己の)所有しているものは常住でないからである。この世のものはただ変滅するものである
~スッタニパータ805
人は様々な事柄で悩みます。
それらはすべて、我がものでないものを我がものであると断定し、それが存在し続けると思い込むことから執着が生まれ苦しみが生じるという基本的な原則を述べています。
当時のインドでは急激な経済活動の発展で、急にお金持ちになったり、借金苦になったり、お金の悩みも大きくなっていたでしょうし、時代を考えると、病気や戦争などで、子どもが成人になるまで生きている確率も低かった時代でしょうから、このような表現になったのでしょう。
その様々な事柄のみならず、自分でさえ自分のものでない、という表現はとても痛烈です。
確かに、健康の事など体のことを考えてみても、自分の思い通りにはなりません。
若くいたいと思っても日々年を取りますし、細胞は毎日死んでいきます。
心もそうですね。
欲望に振り回されたり、わかっていても湧き出る嫉妬心に悩まされたり・・・。
そのように自身のことでさえ思い通りにはなりません。
当然、他のことはもっと思い通りになりません。
そして、さらに、それらはすべて変化するもの、生まれては消えるものなのに、それが常住(ずっと存在し続けるもの)との思い込みが「執着」であり苦しみの根源だといっているのでしょう。
しかしこの原則を忘れてしまって、なぜか他のものが自分の思い通りになる、そこまで思わなくても、他のものがこうあって当然と思ったり、こういうものだと勝手に定義してしまっているのが人間の性質です。
いたずらに現状や状況に嘆き悲しむのではなく、現実が自分のものではないことを知ること、そして常ならざることを知ること、つまり現実を直視し受け入れることの重要性を訴えているのではないでしょうか。
自己が自分のものではない、思い通りにならない、という現実を知ること、受け入れること。そしてそれを乗り越えて強く生きる、という考え方のが原始仏教の根本にあるような気がします。
2コメント
2016.12.08 11:53
2016.12.07 12:29