自己こそ自分の主である
前回、「自己は自分のものではない」と執着から離れることについての句を紹介しましたが、その反対「自己こそ自分の主である」という句もあります。
ダンマパダの第12章に、「自己」という章があります。
「もしもひとが自己を愛しいものと知るならば、自己をよく守れ。
~中略~
他人に教えるとおりに、自分でも行え。自分をよく整えた人こそ、他人を整えるであろう。自己は実に制し難い。
自己こそ自分の主である。他人がどうして自分の主であろうか。自己をよく整えたならば、得難き主を得る。」
ダンマパダ157~160
原始仏教の大きな特長に、自己愛があります。
大乗仏教では他人への愛、慈悲の心など、ある種の自己犠牲的な精神が自己の解脱を達成させる因であるとの考え方も一部見て取れますが、原始仏典では、自己をもっとも愛しいものであり自己を守ることが最優先であるという位置づけをしています。
まず自己を守らない限り、他人を救うことはできないという考え方です。
(ここが比較的原始経典に近いといわれている上座部仏教と後の大乗経典による大乗仏教の大きな溝の部分なのですが、これは主旨がかわりますのでまた機会があれば)
原始経典ウーダナヴァルガにもこのような句があります。
「どの方向に心で探し求めてみても、自分よりさらに愛おしいものをどこにも見いだせなかった。他人にとってもそれぞれの自己が愛おしいのである。それ故に、自分のために他人を害してはならない」
ウーダナヴァルガ第5章18
自己を愛するがゆえに、それと同等である他人を害さない、つまり人間を利己的なものであると認めることで、自己の利益と他人の利益を共存させ、同情であったり、人と人の愛情を成立させています。
そのように、人間は利己的なものであるという現実を知ることが、正しい愛や慈悲の心の原点となるということでしょう。
ですから、まず、自分の「自己は自分のものではない」といわれるほど制し難いものではあるが、他人や、すでに起こった現象を変えることはできません、自分の体の老化は止まりません。
しかしその中で、唯一、自分の心や思考は整えることができます。
つまり「自己の心を制する」ことがもっとも大切だということになるのではないかと思います。
そのように、人間というものの現実・事実を正しく明らかに見つめて、その中で自己を確立すること、ゆるぎない自分を作ることで、周りとの共存、自己の心の安らぎを成立させることが原始仏教の一番の主題だったのではないかと思います。
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