ひと組ずつ~ついに怨みはやむ
原始仏典のダンマパダの第一章「ひと組ずつ」から少し。
ものごとは、心にもとづき、心を主とし、心によって作り出される。もしも、汚れた心で話したり、行なったりするならば、苦しみはその人に付き従う。
まるで、車を引く牛の足跡に、牛車の車輪が、ついていくように。
ものごとは、心にもとづき、心を主とし、心によって作り出される。もしも、清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人に付き従う
影がその体から離れないように
ダンマパダ1・2
前回、「自己こそ自分の主である」でも、自身の心を整えることの重要性を書きましたが、これも同じく、自分の苦しみは自己の心を起点に発生しているのだという、原則論を述べられています。
そして、続けて、こう説かれます。
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した」という思いを抱く人には、怨みはついにやむことはない。
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した」という思いを抱かない人には、ついに怨みがやむ。
実にこの世においては、恨みに報いるに怨みをもってしたならば、ついに怨みのやむことはない、恨みを捨ててこそやむ。
ダンマパダ3~5
私たちは、必ずと言っていいほど、「だれだれに何々といわれた、された。だから気分が悪い」と他にこういわれた、された、他がこうしているから、こうだからと、問題の発生原因を他に求めます。
だから自分の心はこうなったと。
しかし、そのような考え方は幸福をもたらさないとここで言っています。
怒りの心、嫉妬の心、恨みの心、そのような心を抱いたまま生きるというのは、足跡について回る車輪の後のように、苦しみから逃れることができません。
理由はどうあれ、自分の心が作り出した苦しみの影をずーっと引きずっていくんですよ、怨みの心を持っている以上、恨みの心がつくりだした世界に支配され続けるんですよ、といっているわけです。
この句を知って自分の心をよく観察してみると、確かに最初は他人に「傷つけられ」「害された」かもしれない、そしてそのことは人として「決して許されるものではない」。でも、その後の人生、その「傷つけられた」という思いがその都度の選択肢を誤らせているし、その時の状況の真の姿を見えなくしていることに気が付きます。
そして、その「傷つけられた」という思いが、今度は誰かを傷つける行為を自分がする原因になってたりしていることにも気が付きます。
怒りや嫉妬の心は、心に曇りガラスのようなものを作り出すのかもしれません。
ガラスに曇りが生じたらすぐふかねばなりません。
これは非常に、原始仏教の特徴的なところだと思うのですが、「今」をすべての起点にしています。
過去がどうかということではなく、「今」思うこと、考えることがすべてで、それが正しければ、未来が開けるという考え方です。
だれだれにどうされたから、という「過去の因」にとらわれないということなのかもしれません。
つねに「よく心を整えておけ」と仏典では盛んに出てきますが、まさに、いつも「今」であり、その「今」を整えることで、安らぎを得れるのだということなのでしょう。
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